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「自分探し」の語義矛盾について

 「自分探し」という表現がありますよね。この表現は随分と以前から耳慣れたもので、例えば、「自分とは何者なのか?」とか「自分らしさとは何か?」というような、疑問や悩みからスタートして、あれこれ考えてみたり、何かの行動を起こしてみるときの目的設定としては、かなり普通に使われている気がします。

ところが、いざ「自分を探す旅」に出発しても、実際のところ、「あっ!本当の自分が見つかった!!」というような円満な結末は殆ど聞いたことがなくないですか?

内田樹さんと春日武彦さんの共著で、「健全な肉体に狂気は宿る」(角川ONEテーマ21)を読んだときに、このことについて「あぁ、なるほど」と思うことがいろいろありました。

「自分を探す」という表現は、「本当でない自分」が「本当の自分」を探すというイメージを言語化していると思うのですが、結局「探している主体の自分」と「探している対象の自分」は、まったく同一で単独の自分であるところに、根本的な語義矛盾があるのですね。まるで、自分の影を追いかけて走り回っているようなものなのだと思います。

解剖学者の養老孟子さんの著書の一節で、以下のようなものがあります。少し長いのですが、とても腑に落ちた一節なので引用させて頂きます。

わたしはいつも、人生は「答え」だというようにしています。多くの人は逆に考えています。人生は「問い」ではないのに、若いうちは勘違いしをている。だから、「人生とは何か」「生きるとは何か」と考えるのです。この年になってわかるのは、今の自分がこうしてあること自体が、何かに対する答えだということです。それも、「こうやったからこうなった」という単純な答えではない。自分がいままでやってきたこと、社会とかかわってきたことの結果として表にあらわれているのが、只今現在の自分である。いろんなことに反応してきた結果が今の自分です。世の中の一部としてあらわれたのが自分なのです。「復興の精神」(新潮新書)


「理想の自分」を思い描くことは、大事なことだと思うのですが、「本当の自分」は、今ここにいる自分以外の何物でもないと割り切ることも大事なのではないかと思う次第です。

この記事の編集者

院長岩渕 健太郎